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本日(1月17日)、6434人が犠牲となった阪神淡路大震災から23年目を迎えました。私の活動の原点です。

本日(1月17日)、6434人が犠牲となった阪神淡路大震災から23年目を迎えました。私の活動の原点です。


【政治の原点は被災支援】: 本日早朝5時46分で、阪神・淡路大震災から23年が経ちました。

23年前の今日、「(朝起きると)テレビ画面では、横倒しとなった阪神高速道路が大映し」になり、倒壊した街のそこかしこから、煙が立ち昇す光景が中継され、私自身もその場で立ちすくんだことが思い出されます。次の日の新聞でも、この「神戸市東部から芦屋市にかけて阪神高速道路が約500メートルにわたって横倒しになっている写真」が一面を飾りました。


その後、私も支援ボランティアの一人として、現地(被災地)入りを致しました。必要物資が圧倒的に足らない状況を目にし、調査をすると「全国から次から次に届く物資」も大阪等の近郊で止まっている状況でした。まさに「ボトルネック」を認識しながらも、必要な場所の選定も出来ず、適所に配布する人材も方法も全くない状況でした。私は現地で指揮を執る友人のアドバイスに添ってのお手伝いを夢中でしていました。


いったん厚木に戻り、その4か月後、今度は、自分の車(軽ワゴン車)に物資を目一杯積み込んで現地入りをしました。

当時の私は、調理師をする傍ら、外国(アフリカ諸国やタイ王国)に物資を送る活動をしておりました為、他の民間NGO団体の協力も頂き、リネン(貸し出し用シーツ/クリーニング済)を中心に数千枚積み込み現地へと向かいました。高速道路の電光掲示板には、関係車両以外通行止めという表示がなされる中、現地のNPOと連絡を取りつつ「救援物資輸送中」という手作りのプレートを掲げて走り続けました。あまりの現状のひどさに現地では、人にカメラを向けることも出来ず、もちろん、記念写真的に自分自身を写すことも出来ませんでした。私の手もとには、崩壊した建物を写した数枚の写真だけが残っています。この時の思いと経験を忘れず、地方政治の場にて活かして行きたいと強く思っています。


その後も支援していたスリランカ民主社会主義共和国における大規模な津波被害に対する復興支援活動なども通じ、自主防災活動の必要性を強く感じました。地元消防団に入団したのもその影響です。


その後の「東日本大震災に対する支援活動」も原点は、全て阪神淡路大震災への支援活動にあります。震災の記憶や教訓を未来につないでいくかが課題となっています。


【データ】:1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部沖を震源とするマグニチュード7.3の直下型地震が発生。最大震度7を記録。死者6,434名、負傷者43,792名。戦後最大の都市型災害となりました。阪神淡路大震災では強い揺れにより甚大な被害が出ました。全壊家屋104,906棟、半壊家屋144,274棟。


/長い歴史を持つ神戸の老舗ベーカリー・洋菓子店「フロインドリーブ」で修業中に被災(阪神淡路大震災)し、それを機に厚木で、独立開業された「スイス菓子 ポニイ」のご主人・岸田嘉夫さん。

阪神淡路大震災を忘れないように毎年、1月17日は意識して、ポニイのご主人の作られたケーキやお菓子、パンを食べるようにしています。阪神淡路大震災の教訓を忘れないようにとの思いを込めつつ、美味しく頂いています。


本日、県議会からの帰りに寄らせて頂きました。店内に入ると、ポニイのご主人が出てこられて、開口一番、「佐藤知一さん、毎年、1月17日頃になると欠かさず来て頂いて、ありがとうございます。今年も来られると思っていました。」と私に言葉をかけて頂きました。


私を待っていてくれたことに心から感謝しています。今年もご主人・岸田さんとお会いして、阪神淡路大震災前後の神戸の街についてのお話をさせて頂きました。これからも震災ボランティアとしてかかわりを持った経験を教訓として忘れないように日々の活動に励んで参ります。今年は、家族分のプリンと焼き立てパンを購入させて頂きました。


【写真】: 23年前、長田区・志里池小学校(避難所)、志里池公園仮設住宅を中心に活動をさせて頂きました/「スイス菓子 ポニイ」のご主人・岸田嘉夫さん。

 

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県議会議員〈厚木市・愛川町・清川村〉

佐藤 知一

さとう ともかず

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