202511_fukae.jpg

戦後80年、街に佇む戦争遺跡を辿る④ 平塚と戦争 過去~現在~未来

2025年11月21日 深江悠斗


はじめに

 こんにちは!夜に閲覧された方はこんばんは!東海大学2年の深江悠斗です。前回の単独記事から約六か月、久々に単独での記事の執筆になります。
 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、政治の村Studentsは「政治の村Students編集室」にパワーアップし、そこでも私が携わらせてもらえることになりました。
 私の記事をお待ちいただいていた読者の方には、説明や挨拶が遅くなり大変申し訳ございません。その分、学生が増えて強くなった「政治の村Students」で、今までよりも更に良い記事を皆様に提供できればと思います。
 読者の皆様、新しくなった「Students編集室」でも、宜しくお願いいたします。

 さて、今回のStudents編集室では「戦後80年、街に佇む戦争遺跡を辿る」と題し、身近に存在する戦争遺跡・遺構に注目した記事を、メンバーそれぞれが調べ、取り上げることになりました。私も、自分が育った平塚市と切っても切り離せない関係にある「海軍火薬廠」の記憶を残す「火薬廠引き込み線跡」について調べてみました。

軍都平塚の大空襲と海軍火薬廠

 神奈川の沿岸部県央に所在し、東に馬入(相模)川、西に花水川が流れる湘南の街、平塚市。
 戦後には商都として栄え、現在もパイロットコーポレーション平塚工場や日産車体湘南工場、横浜ゴム平塚製造所などがあり、商工業の街として、湘南・高座地域にその名を轟かせてきました。実は、その現在の商都・工業都市としての「平塚」を形作った源流は、戦前の軍需産業と平塚の関係にありました。
 戦後80年を迎えた今年、私が平塚市と戦争について考えるにあたり注目したのは、平塚市に拠点を置いていた海軍火薬廠。火薬廠をめぐる設置、空襲、記憶の継承活動の三点に重点を置いて、平塚市と戦争の関わりについて調べました。
 今回は、そのような「軍都」平塚の海軍火薬廠と、それを取り巻いた環境について、私なりに調べた事柄を紹介していきたいと思います。

注意)本記事が取り上げる大正から昭和時代の間に、平塚は町制から市制に移行(昭和7年)しているため、本記事では、市制施行以前は「平塚町」、それ以後を「平塚市」と呼称し区別しました。

目次


海軍火薬廠の設置と軍都への道

 今回取り上げる海軍火薬廠とは、どのような建物だったのでしょうか。平塚市の戦争遺跡についてまとめられたガイドブック『平塚の戦争遺跡』(発行:平塚市博物館)によれば、海軍火薬廠について「日本海軍における火薬類及びその原料の製造と研究開発の中心的な基幹施設」として機能していた軍事施設であると記載されています。
 平塚町に海軍火薬廠を設置することが法的に決められたのは、大正8(1919)年に、当時の天皇陛下が発せられた勅令の第33号「海軍火薬廠令」(資料1)によってでした。この勅令の第1条で、中郡平塚町に火薬廠が設置されることが明記され、同年4月に海軍火薬廠が、現在の横浜ゴム平塚製造所を中心とした一帯に開廠しました。

(資料1) 海軍火薬廠令

 朕海軍火薬廠令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 勅令代3号 海軍火薬廠令
  第1条 神奈川県那賀郡平塚町ニ海軍火薬廠ヲ置ク
(中略)
附則 本令ハ大正8年4月1日ヨリ之ヲ施行ス

 この勅令により、平塚町に海軍火薬廠が設置され、更にそれを中心にして横須賀海軍工廠平塚分工場や平塚傷兵工場などの軍需産業が集中、火薬廠に軍需物資を運ぶ引き込み線が東海道本線から引かれるなど、平塚は軍都としての道を歩み始めます。

平塚大空襲

 昭和20(1945)年、戦争末期の日本は本土空襲の憂き目にあいました。米軍は日本の各都市を空襲。軍都だった平塚も、その空襲目標からは免れることが出来ませんでした。
 7月16日深夜、米軍の編隊は平塚市上空に飛来し、平塚の軍需工場及び市街地を焼き払いました。この時の空襲で投下された焼夷弾の数は41万本以上。これは、全国で2番目に多い投弾数であると言われています。
 平塚市が、これだけの潰滅的な空襲による攻撃を受けた理由は2つ考えられます。
 一つは、米軍の日本上陸計画(ダウンフォール作戦)において、相模湾(当時、高座郡茅ケ崎町海岸)への上陸作戦が予定されていた為、その前哨戦として軍事施設のある平塚を壊滅させた可能性。そしてもう一つは、海軍火薬廠などの日本の継戦能力を支える工業力及び戦力物資が、平塚市に集中していたことが挙げられます。
 どちらの理由にしても、火薬廠の存在と平塚大空襲は切っても切り離せなさそうです。

戦後復興と火薬廠引き込み線跡

 終戦後、公選初の市長である柿澤篤太郎氏のもと、平塚市は戦後復興に励みました。

 大空襲によって焼け野原となった平塚市は、これを機に空襲被災地の大規模な区画整理を実施。現JR平塚駅周辺地域には、区画整理のモデル地区に匹敵するような碁盤目状の道路が広がっています。
 しかしながら、平塚駅周辺の地図を見ると、平塚駅西口からオーケー平塚店、見附町のひらしん平塚文化芸術ホール(旧見附台公園)にかけて、周りとは不似合いな、弧を描いた道路を見つけることができます。これこそが、終戦まで使用されていた海軍火薬廠引き込み線の跡です。(資料2)

202511_fukae.jpg
(資料2)海軍火薬廠引き込み線跡に設置された道路。奥に向けて、右にカーブをしているのが分かる。

 実は、この地域一帯は、平塚大空襲の惨禍の中でも、焼夷弾による火災の直撃を受けず、焼け残った地帯だったとのことです。区画整理は、原則として焼失した市街地を優先して行われるため、被災の少なかったこの地は、引き込み線跡を道路とすることで戦後復興しました。
 戦後80年経った今では、海軍火薬廠の軌跡を知ることが出来る「道路」として語り継がれています。

後世へ伝える活動の行方とまとめ

 さて、戦後から今まで語り継がれてきた平塚と戦争の関係ですが、終戦から時代が経つにつれ、個別の歴史を伝承することが少なくなってしまったように思います。しかしながら、それでも「平塚での戦争の悲惨さ」を後世に伝える活動がなくなったわけではありません。平塚市で起きた戦争の被害を記録し、後世に伝える動きは、平塚市博物館や戦災を記録する市民団体などの既存の団体以外からも行われています。今回は、Students編集室にちなみ、戦後65年と戦後79年の二回行われた「学生が関わった2つの伝承活動」について紹介したいと思います。
 例えば、平成12年に県立高浜高校歴史部(現在は廃部)が、「学校が消えた日」と題して平塚大空襲の被害を立体模型図で再現した模型を同校の文化祭「高浜祭」で公開しました。その内容が、神奈川新聞に取材され掲載されるなど、学校を超えた社会へと拡散され、世間を賑わせました。
 また、令和6年には、第23回湘南ひらつか市民演劇フェスティバルで演劇フェスティバルワークショップ(平塚市まちづくり財団が主催したワークショップで、その参加者による出演団体)が、平塚大空襲直前と当日の平塚と県立高等女学校(現、県立平塚江南高校)を舞台にした「ハルカカナタ」を上演。そのなかで、平塚大空襲の「辛さ」を視覚的に表現し、これもまた世間を賑わせました。
 このように、「平塚大空襲(平塚の戦争)の記録」を後世に伝える活動は盛んです。
 しかしながら、個々の遺跡や内容を伝える活動は多くありません。
 今後、戦争経験世代がいなくなった戦後に、戦争の悲惨さを伝え、そして残していくためには、実際の遺跡や名残をどのように伝えていくのかが課題になっていくと思われます。
 私の意見として、模型で見るような資料的な、演劇を見ることで得るような感情的な記憶としての「戦争の記録」を残していくだけでは、感情的なきっかけを作ることが出来ても、「戦争の悲惨さ」という知識を身につけたことと変わりないと考えます。だからこそ、戦争遺構という実物大の「記録」を、模型や演劇で戦争を考えるきっかけを得た人が見て、肌で感じ、平和の尊さとその思いを馳せることが出来るものとしてそれを残す。更に、その遺跡の由来や名残、そしてそれに関わってきた人のつらさを後世に残していくことが、「戦争」と「戦後という平和の時代」を考える上で必要であると感じました。
 戦争の被害や辛さを後世に残していくために、それを記録し、発信し続けることは素晴らしいことだと思います。ただし、それだけでは平和を続けることが出来ないのもまた事実です。実際に、ロシア連邦はウクライナに対して特別軍事作戦を実施し、パレスチナではイスラエル国の侵攻によって、一般市民に対してホロコーストの悲劇が再現されています。戦争や虐殺の悲劇の歴史は繰り返してしまいました。
 だからこそ、「平和を守るためにはどうすればよいのか」「平和を守るためには何が必要なのか」など、一歩踏み込んだ内容を一人ひとりが考え、相互理解や国際協調について、感情だけではない、「自分の平和論」を持つ必要があるのではないかと、私は考えます。

 本文の作成に実際に用いた参考資料で、且つ平塚と戦争について知り、「自分の平和論」考えることが出来るおすすめの書籍を最後に掲載しています。
 ぜひ、お目を通していただければ幸いです。

 本記事をお読みいただきありがとうございました。次回の記事でまたお会いしましょう。深江

参考資料

平塚市博物館市史編さん担当『平塚市史10 通史編 近代・現代』(平成22年、平塚市)

平塚市博物館『ガイドブック18 平塚の戦争遺跡』(平成13年、平塚市博物館)

神奈川県立高浜高等学校歴史部『歴史探検 Vol.2』(平成13年、神奈川県立高浜高等学校歴史部)

戦時下の県立平塚高女を記録する会『火薬廠のある街で 戦時下の県立平塚高等女学校』(平成9年、夢工房)

大西比呂志他2名『相模湾上陸作戦―第二次世界大戦への道』(平成28年、有隣堂)

栗原健成『湘南ひらつか浜岳地区の歴史② 相模紡績・富士紡績 平塚工場』(令和7年、自費出版)

栗田尚弥『茅ヶ崎市史ブックレット1 コロネット作戦 ―第2次世界大戦と茅ケ崎―』(平成28年、茅ヶ崎市)

神奈川新聞 平成12年9月23日 「『学校が消えた日』再現 高浜高歴史部」


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
前の記事: