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戦後80年、街に佇む戦争遺跡を辿る③

2025年11月17日 牧田未来


こんにちは!
フェリス女学院大学4年の牧田未来です。

今年は、終戦から80年を迎えた節目の年になります。「戦争」と聞くと、その恐ろしさや歴史を教科書や本、映像だけでなく、戦争体験者から直接聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。私たちの世代は「戦争体験者から生の声を直接聞くことができる最後の世代」と言われています。戦争体験者が希少な存在となっていく現在、私たちは戦争についてどのように次世代に繋いでいくことができるのでしょうか。

この問いに対して、政治の村Studentsでは、戦争遺構・遺跡に着目。私は、横須賀市にある海軍工作学校跡と陸軍重砲兵学校遺構に足を運んでみることにしました。

以下では、私がこれらの場所を訪れて感じたことなどを追加調査したことも交えながら紹介します。皆さんも、横須賀市のまちを歩いている気分で読んでもらえると嬉しいです。そして、戦争遺構・遺跡が「次世代への継承」において果たす役割について一緒に考えてみましょう!

横須賀市と戦争

まずは、横須賀市の当時のまちの様子について一緒に見ていきましょう。

『大津郷土誌』という、大津地域の歴史等について詳しくまとめられている資料によると、横須賀市―特に陸軍重砲兵学校や海軍練兵場、射的場があった大津という地は、海、山、野原や小川などの自然に恵まれた環境であったとのこと。大津以外にも恵まれた自然環境だった横須賀市には砲台跡など陸軍や海軍に関係するものが多く残されていることから、軍と横須賀市は深い関わりがあったことが考えられます。また、神奈川県が公開している地域ごとに分かれた県内の戦争関連史跡・建造物の一覧を見ても、軍が関係している戦争遺跡・戦争遺構は横須賀市に一番多く存在していました。横須賀市には現在も米海軍横須賀基地があり、軍と深い関わりがある都市であることが分かります。

そんな軍との関わりがある横須賀市の戦争遺跡・戦争遺構調査で、陸軍や海軍の学校に通っていた若者は当時どのような想いで過ごしていたのか、年齢の近い彼らに想いを馳せてみませんか。

海軍工作学校跡

はじめに海軍工作学校跡に足を運びました。海軍工作学校跡は京急久里浜駅から歩いて15分ほどの久里浜公園の中にありました。

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海軍工作学校は、昭和16年(1941年)に22万㎡の広大な敷地に開校しました。工作術専門の教育機関で、終戦までに軍工作学校で教育を受けた生徒は5万人、卒業生の戦没者は5,118名とされています。また、卒業生は習得した技術をそれぞれの分野で発揮して、工場経営や技術者として戦後の復興に大きな功績を挙げています。

この史実を後世へ伝承していくために久里浜公園では毎年5月22日に慰霊祭が開催されています。

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*久里浜公園内の海軍工作学校記念碑

陸軍重砲兵学校遺構から

続いては陸軍重砲兵学校です。京急線の馬堀海岸駅から20分ほど歩いた馬堀自然教育園の中に遺構がありました。

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馬堀自然教育園は、1897年(明治30年) から1945年(昭和20年)まで陸軍重砲兵学校施設として利用され、戦後も国有地として管理された後は、1959年(昭和34年)に横須賀市博物館に引き継がれました。

現在は馬堀自然教育園という名前で、横須賀市の指定天然記念物として最大の土地です。三浦半島の自然が残されてきた貴重な場所であり、園路は自然観察のルートに適しています。園内を散策すると、弾薬庫であったと考えられる建物や防空壕跡、爆風除けと考えられる厚い壁、未調査の地下施設が残されていることが分かりました。また、1939年(昭和14年)に建てられた稜威(みいつ)神社のなごりの台座、鳥居、石碑なども残されているとのこと。

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*火薬庫であったと推定される建物

火薬庫であったと推定される建物は歴史を感じる風貌ではありますが、一見すると一般的な建物のようで、何も知識のない私からは「これが火薬庫として使われていた」とは思えないものでした。写真では確認できませんが、この後ろには火薬庫爆発時の被害を最小のものにするために爆風を防ぐ大きな壁があると馬堀自然教育園の中にあるポスターに書かれていました。その壁が見えないほどに木々が育ち、生い茂っていく様子を見ると、火薬庫が使われていた時から長い時間が経過したことがよく分かります。

陸軍重砲兵学校での過酷な日々

そんな陸軍重砲兵学校での日々はどのようなものだったのでしょうか。『わが青春の譜』という陸軍重砲兵学校第七期幹部候補生文集に当時の日々について綴られているものがありましたので、一緒に見ていきましょう。

多くの人が別の学校で訓練を積み、幹部候補生として陸軍重砲兵学校に来ていたそうです。陸軍重砲兵学校での訓練については、

「激しい訓練の連続であった。次々と詰め込まれる重砲兵将校として必要な新しい教育演習に消化不良を起こしそうになり乍ら全く肩で息する毎日であった」(136頁)、

と激しい訓練と新たな知識を得る日々を送ったようで、その辛さが読み手にも伝わってきます。

「この学校での訓練はかなり厳しいものだった。小原台の上から東京湾を走る諸船を目標に、射撃訓練をするのが、主な日課だが、それには勿論観測、通信の訓練も加わった。時には標的船を走らせての実弾射撃訓練も行われた。また三十/四十榴の据え付けられている走水の砲台にも(省略)往復させられた。(省略)ここへの道のりは、かなり長かった。雨の中を軍歌を歌いながら、何回も往復したが銃が肩に食い込むのには閉口した。軍歌『要塞砲兵の歌』『波蘭懐古』『四條畷』は好きだったが、ふと俺が戦争で死なないで生き永らえて、この歌を歌うことがあるのだろうか、いや、そんなことはあるまい、戦死するのだからなどと、思ったことを忘れない」(182頁)

などと過酷な訓練を具体的に記し、更には戦争で命を失うと覚悟していた様子を綴る人もいました。他にも、戦争で日本は負けるだろうと仲間と話す様子や、自分の命を儚いものと覚悟していることを記していた人もいました。

彼らの文章を読んで、当時の若者で戦争について「負けるだろう」と考えていた人がいたことや、戦争や訓練に対して多くの人がマイナスな想いを抱いていたことに驚きました。私はこれまで戦争について学ぶ機会は多くありましたが、当時の若者の想いについては知る機会が無く、戦争によって学校の教育制度の変化や情報統制があったことを知っていたため、当時マイナスな想いを持つことを禁じられていたり、そもそも正しい戦況を当時の若者は知らなかったりするのではないかと考えていました。

日々の中に仲間と息抜きに遊びに行った話や仲間との楽しい思い出を記していた人もいて、辛いことが多い日々の中で楽しみを見つけて過ごす様子も印象的でした。

おわりに

戦争遺跡・戦争遺構に訪れてみたり、当時の若者がそこでどのような想いを持っていたのか、調べてみたりしたことで、戦争についての新たな一面を知ることができました。今回の調査では私たちと年齢の変わらない当時の若者が陸軍重砲兵学校でどのような日々を送り、どんな想いを抱いていたのか知ることで、同じ若者として彼らに親近感が湧いたり、一方で過酷な日々を過ごす彼らに胸を打たれたりと、戦争の悲惨さをより強く感じました。

当時の若者が遺した記録だけでなく、彼らが過ごしていた戦争遺跡・戦争遺構となった場所も未来に繋げていくようにすることが私たちの使命だと思いました。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!
また来月お会いしましょう!

参考資料

・石井昭(1987.3)『ふるさと横須賀(上)―幕末から戦後までー』)

・石井昭(1987.3)『ふるさと横須賀(下)―幕末から戦後までー』

・記念誌編集委員会(1981.10)『大津郷土誌』

・七重会編集委員(1993.4)『わが青春の譜陸軍重砲兵学校第七期幹部候補生文集』

・秦郁彦(2005.8)『日本陸海軍総合事典〔第二版〕』

・陸軍重砲兵学校『陸軍重砲兵学校回顧史』

・神奈川県 県内の戦争関連史跡・建造物(2025.4.15)
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/historic_site.html
(閲覧日2025.9.20)

・久里浜観光協会 海軍工作学校跡(久里浜公園)
https://kurihama.info/kankou/kousakugakkouato/
(閲覧日2025.9.20)

・横須賀市 「第48回旧海軍工作学校戦没者慰霊祭」の開催について (2025.5.21)
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2754/nagekomi/20250522ireisai.html
(閲覧日2025.9.20)

・横須賀市 馬堀自然教育園(2023.5.7)
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/sisetu/fc00000383.html
(閲覧日2025.9.20)


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