性暴力と闘う
2018年12月26日東海大学文学部広報メディア学科3年 澤村成美
「短いスカートを履いて、夜道を歩いていたら性被害に遭うから気をつけなさい」
ことあるごとに、両親は私に向かってそう言った。だから短いスカートは控え、人通りの少ない夜道はなるべく避けて、前後左右を注意深く確認しながら歩く。実際、近所に不審者情報が入ることは珍しくない。娘を心配しての言葉であることはわかる。けれど、私の弟には門限がないのだ。夜遅くに出かける弟を見るたびに、羨ましくなった。
なぜ女性は一人で夜道を歩くときに、常に危機管理をしなくてはならないのだろうか?注意を守っていたら、絶対性被害に遭わないのだろうか?
2018年の流行語大賞で、「#MeToo」がベスト10位入りをした。アメリカの大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏によるセクハラ被害に対し「#MeToo(私も)」と被害女性たちが声をあげて闘ったキャンペーンである。2017年に始まり、今日までSNSのハッシュタグを中心に広がっている。
Twitterでは「#MeToo」のあとに、3人が挙手する絵文字がついている。2018年12月24日現在、過去1時間の投稿は220件。いまでもすべてのツイートを読みきることは不可能なくらい、盛んに投稿がされている。セクハラやレイプに対して「実は私も......」「私も被害経験があって」といった投稿を見ていて、私と同じ疑問を抱き、葛藤する人々がいることを知った。
「#MeToo」関連の投稿に対し、「被害者の危機管理能力が欠けていた」とのリプライを見ることがある。自衛をしなかったのだから、性被害にあっても当然だという言説である。
例えばこぶしで他人を殴るような暴力だったら、傷がつき血が流れるため、暴力だと判断しやすい。怪我をした人に対して、「弱々しそうに見える服装だったから殴られたんだよ」「危ないと思って避けなかったあなたが悪い」という言葉をなげかけるだろうか。殴った側を擁護する人は、どれだけいるのだろうか。
これが性被害になった途端、被害者の落ち度を非難する人が増える。性的暴行ならば、NOと言いさえすれば逃げられるのか。
私はそうは思わない。加害者側は「知り合い」や「上下関係」を利用して、言葉を巧みに使い、逃げ場を塞いでいく。力では到底かなわない。実際は暗がりの路上で見知らぬ人に襲われることよりも、顔見知りから暴力を受けることの方が多いのだ。身近な犯罪だからこそ、声を上げづらい。防犯ブザーを所持したところで、何の役にも立たない。
いままでの"言説"を見直し、自分を守る、大切な人を守る方法について知りたい。話したい。しかし、学校では性教育が十分に行われていない。私はそんな危機感から、自身でプロジェクト「Free paper(Shells)」を立ち上げ、創刊号では性暴力・性教育をテーマに特集を組んだ。
私の友人が話してくれた性暴力被害の記事を主軸に、学校の性教育では教わらないパートナー間の性的合意、避妊などについても取り上げた。冊子の最後には、被害に遭ったときの相談窓口をまとめた。
冊子を作る際、学生へのアンケートをとった。自由回答にあった「どこからが性暴力になってしまうのか、わからなくて怖い」という意見が印象的だった。今の若い世代にとって、性知識の情報源となっているのは友人・先輩の話や、アダルトビデオやSNS、インターネットの情報だ。どれが正しくて、正しくない情報なのか、見極めることは難しい。
性暴力被害を服装や環境のせいにして、「なかったこと」にしようとしてきた怠惰な社会は、また次の加害者を生み出す。
暴力を告発しやすい、安心して暮らすことのできる社会にしていくためには、ステレオタイプの考えを一度捨て、「性のこと」を気軽に話せる環境が必要だ。性暴力と闘うべきは、被害者だけではない。私たち一人ひとりだ。