右翼活動に身を投じる若者たち~青年右翼活動家ルポ~①

2023年02月08日東海大学 笠原研究室

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新右翼団体「統一戦線義勇軍」中村一晃(27歳)

軍歌を騒々しく鳴らす黒塗りの街宣車、機動隊のような厳めしい服装、スピーカーで激しく何かを糾弾する強面の男たち......。「右翼」から連想されるイメージです。その一方、実際の右翼団体を観察してみると、高齢者が多い印象の左翼団体と比べ、若者の姿も少なくありません。「若年層の投票率低下」「若者の政治離れ」が叫ばれる中で、政治活動、それも右翼活動に積極的に参加していく青年の存在に興味を惹かれ、10代~20代の右翼活動家3人に取材しました。

(東海大学笠原研究室 倉元真生)

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(上)新橋駅周辺を歩く「右から考える脱原発デモ」(2022年12月27日)
(下)経済産業省の前で抗議スピーチを行う中村さん(同)

2022年12月27日(火)午後7時、東京・銀座の繁華街に中村一晃さん(27)の姿があった。「脱原発を実施し、子供達の命と麗しき山河を守れ!危険な原発を稼働させるな!」。拡声器を通じて訴えながら、大きな日章旗を掲げる男性ら約10人と共に出発。東京電力本店や関西電力東京支社、経済産業省などを回り、JR新橋駅へと向かう。約4kmを1時間半かけて練り歩き、この日の抗議活動を終えた。このデモ行進「右から考える脱原発デモ」(通称:右デモ)は、東日本大震災による福島第一原発事故を受けて2011年7月に始まり、それから12年間、ほぼ毎月実施されている。参加者は毎回10人前後で、多くは仕事終わりに参加する。中村さんがこのデモに初めて参加したのは5年前の2018年2月、大学院の修士課程を終えて都内のIT企業に就職する直前だった。それが、中村さんの政治活動家としてのスタートだった。

脱原発のデモ、というと左翼団体が中心のイメージが強い。だが、中村さんは「統一戦線義勇軍」(略称:義勇軍)という新右翼団体に所属し、「反米愛国、自主独立」をスローガンに掲げて活動を続けている。昨年5月に米国のバイデン大統領が来日した際には、大統領が横田基地から六本木の米軍基地「赤坂プレスセンター」に移動するタイミングに合わせ、街宣車に「アメリカによる大量虐殺 広島・長崎原爆投下を忘れないぞ!」と書いた横断幕を掲げて抗議活動を展開。警察に移動させられないよう、街宣車をプレスセンターすぐ前のコインパーキングに駐車するという徹底ぶりだ。さらに白金台で開かれた歓迎夕食会の帰り道でも移動ルートを推測して待ち伏せ、横断幕を掲げた。何がそこまで中村さんを駆り立てるのか。「それは......沖縄のことを考えると......ごめんなさい」。突然、涙を流した。「沖縄は唯一の地上戦があったところ。そんな場所に、いまだに米軍基地があることが、許せない」。

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新宿区内のカフェで取材に応じる中村さん(2022年12月18日)

「祖父の影響は大きいと思う」と話す。中村さんの祖父は、沖縄出身の弁護士で歴史学者の新里恵二氏。『沖縄史を考える』(勁草書房、1970年)、『沖縄』(岩波新書、1963年、共著)などの著作がある。また中村さんが生まれ育った横浜市中区には、在日米軍横須賀基地の関係者が住む「根岸住宅地区」があり、少年時代から「アメリカ」を身近に感じて育った。神奈川県内でも有数の私立進学校に進学し、そこで出会った教員の影響も語る。東日本大震災の際、首相官邸前で行われた抗議デモに参加した経験を率直に生徒に語り、「学校の中であろうと、教員という立場に関係なく、自らの左派的な政治信条をハッキリ言う。その生き方が面白いと思った」。中村さん自身は「ネット右翼」系の言説をインターネット上のサイトで閲覧して関心を持っていたが、「右とか左とか、そんなラベリングにあまり意味はない」というスタンスは、現在も一貫している。「勉強は何でもできたが、特に歴史が得意だった」という中村さんを、母親は祖父と同じ弁護士になってもらいたいと考えていたようだが、あえて物理の道を選択。都内の名門私立大学で物理学を専攻した。学生時代は勉強に集中するため、政治的な言説から距離を取っていた。その中村さんに決定的な影響を与えたのが、現在所属する「義勇軍」の議長、針谷大輔氏(57)だった。

新右翼を代表する活動家の一人である針谷氏は1987年1月、住友不動産の会長宅を他の活動家2人とともに木刀を持って襲撃した。「バブルの地価高騰を招いた元凶。一流企業がウラでは地上げで年寄りを苦しめている」などと主張して夫人を人質にして立てこもり、住居侵入、監禁などの罪で懲役1年6月、執行猶予4年の判決を受けた。さらに1996年4月、米国のクリントン大統領来日への反対活動として武装闘争を計画し、短銃を所持した銃刀法違反の罪で3年半の実刑判決を受けた。1989年9月から「義勇軍」2代目議長に就任し、「反米愛国・自主独立・自衛隊解体・国軍創設」を運動のスローガンに掲げる。毎年8月と12月には横須賀の米軍基地前で抗議活動を行う。針谷氏の指揮で、米軍基地のゲートを守る機動隊に向かって抗議するこのデモは、30年近く続いている。初期のころはより過激で、重装備の機動隊と衝突を繰り返していた。1995年に沖縄で起きた米兵による少女暴行事件直後に行われたデモでは、挑発してきた米軍基地関係者を義勇軍構成員の一人がプラカードで殴って逮捕された。当時の写真が、義勇軍ホームページの活動画像集に残っている。こうした直接行動について、針谷氏は「物理的表現で世間にアピールすることも一つの手段」といい「我々の事件のおかげで住友不動産の地上げ問題に対する批判を記事化できた、と言ってきた新聞記者は多かった。統一教会問題も、山上徹也が安倍元首相を銃撃したことで社会が動いた」と説明する。

「"本物"だと思った」。針谷氏について、大学3年生ごろに初めて知り、中村さんは衝撃を受ける。思想家・柄谷行人の「デモをすることで、デモをする社会を作れる」という言葉にも、背中を押された。そして修士論文を書き上げた後、意を決し針谷氏が主宰する「右デモ」に初めて参加し、震えながら声を発した。「外からの視線を、怖いな、と思った」。それでも最後までデモを歩き、達成感に充たされた。半年後には米軍横須賀基地前の抗議活動にも参加し、針谷氏と関わっていくうちに、「針谷大輔の人柄に惚れた。使命感を持ち、やるべきことをやっている人。この人と一緒に活動したいと思った」という。その針谷氏は、中村さんについて「今の若い人には珍しく、ネット上で目立つことを目的にしていない。現実の課題に向き合う、形ある活動をしたいという意志を強く感じる。若い人もまだまだ捨てたもんじゃない」と評する。

2021年3月、正式に義勇軍に加入した。「後進の育成がうまく行っていなかった。針谷大輔の運動を引き継ぎたいと思った。この運動は誰かが引き継がないといけない」とその理由を話す。「特に横須賀のデモは、警察や米兵に抗議の意思を示す、ある種の"戦争"として続けなければだめだと思っている」という。昨年7月の参院選に出馬した針谷氏や知人の市議の事務所スタッフなども務めたが、自身の出馬については「支援者づくりなどの政治活動には向いてないし、政治家になってもやりたいことがない」と否定する。

では、今後の目標はどこにあるのか。「日本人が日本人としての意思を持てる社会をつくりたい。日本人として日本を創っていくんだという気概を持つ人を少しでも増やしたい」と語る。勤務先で現在、労働組合を結成しようと動いているという。「協働とか互助の精神を活性化したい。そこに、右派とか左派とか関係ないはず」。

従来の「右翼」イメージとは全く異なる活動家の姿に触れ、右翼活動家に対する私の関心は、ますます募った。

【中村一晃さんプロフィール】

1995年(平成7年)2月生まれ。神奈川県横浜市出身。趣味は読書、野球観戦(ベイスターズファン)、アニメやドラマの鑑賞で、最近見たアニメで印象に残ったのは「鬼滅の刃」。尊敬する歴史上の人物を尋ねると「ひねくれてると思われるかもしれないんですが、歴史上の人物って必ず美化されているので、実際に会ったことのある人しか尊敬しないんです」との答え。


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