〈活動家嫌い〉を考えよう
2023年09月06日田原 美優
活動家があまり良い印象を持たれていないことは、活動家の私の口からわざわざ言わなくても、若い皆さん自身が感じていることだと思います。今まで、複数の学校で授業をして学生の意見を聞くなかで、また身近な人との関わりのなかで、活動家に対する冷たい視線を感じてきました。でも、何より自分の中に、自分がやっていることを咎める声がやむことがなく、それが一番私を苦しめます。
今日は、活動家への冷たい視線を〈活動家嫌い〉と表現し、〈活動家嫌い〉とは何なのか、活動家であることをやめない私が〈活動家嫌い〉にひとまずどのような結論を与えているのか、書いていきたいと思います。またそのなかで、政治や社会を変えたいと思った時に具体的にどのようなアプローチがあるのかの記述が伴うので、そういった面でもぜひ参考にしてください!
〈活動家嫌い〉とは何か
〈活動家嫌い〉という強めの表現を使うからには、ここでは〈こわい〉〈よくわからない〉という活動家に対する認識は扱いません。もっと踏み込んで、〈嫌い〉という認識について考えます。なぜこのように思われるのか、理由は色々思いつくし、その中には誤解もありますが、今はその中の一つに焦点を絞ります。それは活動家が、要求の実現のため、頭で〈分かってもらう〉以外のアプローチを積極的に活用し、なんだか真理に背を向けているように見えることです。
例えば、私は学生として論文を書くときと、活動家としてスピーチの原稿を書くときとを明確に区別しています。スピーチを作るときには、〈分かってもらう〉ことよりも〈感じてもらう〉ことを意識しています。人は分かるだけでは行動しないからです。スピーチでは、身近な生活の話から、社会や世界の話、正義の話に一気に論理が飛躍するほうが感動的なことがあります。ある程度の不正確な表現は許容するし、内容一本勝負というよりは、強調などの言い方の部分や、聞き手にとって身近なエピソードを選択することによって聞く人を行動に駆り立てようとする部分があります。
他にも、私は今、ある基礎自治体で気候変動問題に関する運動をしています。温室効果ガス削減目標の引き上げを目指し、仲間とともに、これまで色々なアプローチをしてきました。メンバーの1人は環境審議会の委員になって、市の公式文書に意欲的な数値を追加させることに成功しました。行政職員とは何度も面談をさせていただき、市長とも面談を2回することができました(注1)。また、議員たちに議会で発言してほしいことを伝え、議員を通して議会で発言をする、という行動をとったこともありました。これらのアプローチは、大まかには頭で〈分かってもらう〉働きかけです。言葉を尽くし、何をするべきで、どうしてそれが実現可能で、行政の仕事のどこに改善の余地があるのかを議論で説得するものです(注2)。
これらの活動のなかで私たちが直面したのは、市を理詰めで変えることの限界でした。そこで私たちは、新しい戦略を考えることにしました。最初に考えたのは、市長の支持母体と関係を構築し、支持母体と協力して市長に働きかけるというものです。早速、その団体の方にお話しをしに行きました。私たちのことをポジティブに捉えていただけたとは思うのですが、肝心の私たちの戦略があまり有効でないとアドバイスをいただいたので、第一の戦略を諦めることにしました。
次に考えたのは、行政職員の心理について仮説を立て、そこに働きかけるというものです。私たちは、職員のなかに、私たちの論理に対する反論だけでなく、ちゃんと目標を実現できるのか、他の部署から反対されないか、などの大きな不安があると感じていました。そこで、職員に日頃の感謝や支持・応援のメッセージを署名や寄せ書き、電話でたくさん届けるというアクションを考えました。今、この実行に向けて準備中です。
このように、理詰めの限界を感じた私たちは、〈分かってもらう〉アプローチではなく、別の力を活用する戦略を考え、実行に移しています。具体例が長くなりましたが、私が冒頭で言った、「活動家が、要求の実現のため、頭で〈分かってもらう〉以外のアプローチを積極的に活用」しているというのはこういうことです。上に述べたほど具体的にはイメージできていなかったとしても、なんとなく、活動家は〈分かってもらう〉じゃない働きかけ、別の何かの力(例えばよく言われるのは感情)を活用しているイメージが皆さんのなかにもあったのではないかと想像します。なぜ〈嫌い〉につながるかというと、こういったアプローチは、真理から遠ざかる、あるいは真理に対して不誠実なのではないかと思えてしまうからです。そのようにして実現された要求は本当に正しいという保証がないじゃないか、と言いたくなります。
私がどう向き合っているか
〈活動家嫌い〉の源泉の説明ができたところで、私がこのことにどう向き合っているかを述べたいと思います。私は、社会運動のこうした側面に疑問を抱きつつも、それでも、確かな必要性を感じているから、活動家であることをやめていません。必要性というのは、既に述べた通り、人は〈分かる〉だけでは行動しないことと、政治、社会には主張の正しさ以外の様々な力学が働いているという現実に対抗しなければならないことから生じます。また、気候変動という、緊急の行動が求められる問題においては、真理の探究が過剰で害悪となる一線があるからです。真理を探究し行動をためらう間にも、気温は上昇し、たくさんの命、健康、暮らし、文化、幸福、自由が奪われます。私は、真理の探究の適切なラインを見極めることが大事なのだと思っています。
でも、もちろん、こうした〈必要性〉だけで自分の活動が全て正当化されるとも私は思ってはいません。自分たちの主張の欠陥を修復し議論を尽くすのを置き去りにして、違う力学に頼ろうとする自分に疑問を抱く自分もいます。よく学生が言う「具体的で正しい代案がないのに社会運動には参加できない」という主張とも通じる感覚だと思います。では、私の活動を、〈必要〉以上の正しいものにしてくれる根拠は一体何なのでしょうか。あるいはやっぱり、正しくないのでしょうか。それを見極めるためにも活動を続けていきたいと考えています。
ただ一つだけ言いたいことは、活動家や社会運動に対して知らないことが多いまま、活動家を否定したり、無視したり、決めつけたりするのはやめたほうがよい、ということです。それは、活動家に対して良くない態度だから、というだけではありません。ものを見る目を貧しいものにしてしまうという意味で、自分自身に対しても失礼で、悪影響をもたらすと思います。
最後に、このような記事を書くことにした思いを述べて終わろうと思います。自分の今の認識や考えがまだまだ未熟であるのに、また、活動家に対するマイナスな印象を強める可能性があるのに、なぜ、書いたのか。それは、活動家になる前の私が求めていた活動家になるためです。大人になって仕事に就いて社会を変えるしかないのだ、と思っている学生たちにとって、活動家は、今すぐ社会を変える行動を起こせるのだと教えてくれる希望の存在です。また、高い理想を打ち出してくれる希望の存在です。でも同時に、若い人たちにとって活動家は、怪しく、奇妙で、時に〈嫌い〉という負の感情を引き起こす存在でもあります。
活動家になる前の私は、活動家に教えてほしかった。活動家だって、本当はすごく悩みながら、それでも一生懸命、真面目に、誠実に、自分の言葉と行動を一つ一つ選びとっているのだということを。活動家が、自分たちの行動のどこに批判的まなざしを向けているのか、それにどう向き合っているのか、何を考えているのか、ありのままを教えてほしかった。そしたら、もっと活動家を希望に感じられたし、胸を張って活動家になりたいと言えたと思うから。
これからも私は、日本の若い人たちに社会運動という道を開く存在になれるよう、精一杯悩みながら行動し続けたいと思います。9/18(月・祝)には、代々木公園で労働組合のベテランの方々とも協力しながら大規模な集会とデモ行進をします。デモでありながら、お祭りでもある、そんな日になります。FFF Tokyoのメンバーとして、当日、本部テントなどにおりますので、話しかけにきてほしいです!詳細は下記リンクよりご確認ください!
https://www.instagram.com/p/CwuxvUpPJuV/
注
1 余談ですが、市長との面談にこぎつけるのはそう簡単ではありません。実現した要因は、経験が長く、また、政治が上手な議員に出会えたことです。
2 議員たちとの関係の持ち方や、首長に働きかけようという動機には、〈分かってもらう〉アプローチではない部分があります。正しいことは必ず実現する、という発想ではなく、政治力学をうまく活用すれば実現する、という発想に拠った振る舞い、動機です。