平塚市の政治史を辿る 第一回

2025年01月21日

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第一回 「市立高浜高校と市立商業高校の県移管併設問題(1956年)」

 こんにちは!夜に閲覧された方にはこんばんは!東海大学1年の深江悠斗です。今回から、タウンニュース政治の村studentsのブログ内にて、色々な政治に関する記事を執筆させていただきます。拙文ですが、お付き合いいただけますと幸いです。

 さて、皆さんは平塚市の政治史についてどれくらいご存じでしょうか。柿澤篤太郎さんが公選第一号の市長だとか、女性初の平塚市長は大蔵律子さんだとか・・・。詳しい方だと、平成23年から存在している自民党系会派「清風クラブ」と同じ名前の会派が、昭和38年から昭和42年まで存在していたことを知っているかもしれません。
 初回は、普段まとめられることのなかった、埋もれていた平塚政治史をご紹介したいと思います。その名も、「高浜高校と商業高校の併設に関する問題」。「平塚市立高等学校併設反対期成同盟」や昭和31年の議会議事録の断片など、ここでしか見ることが出来ない情報が盛りだくさん(多分)。では、本文をお楽しみください。

(この記事は、筆者がひろばの会会報誌『ひろばの会』12月号(2024年12月25日)に寄稿した記事「母校・県立高浜高校九十周年を祝う」を大幅に加筆・修正したものです。)

【県移管併設問題前史① 市立高浜とは】

 平塚市立高浜高等学校とは、現在の神奈川県立高浜高等学校のことである。昭和9(1934)年に平塚市立実科高等女学校として開校したこの学校は、9年後に平塚市立高等女学校と改称し、昭和20(1945)年の平塚大空襲で校舎が全焼する。校舎を確保するため、昭和22(1947)年に私立平塚高等実践女学校を吸収合併することで再起を図り、戦後を迎えた。戦後の学制改革では、新制高校として市立高浜女子高校(昭和23年)、市立高浜高校(昭和25年)へと変遷し、現在の「高浜」の名前に安定していった。当時の様子を、県立平塚商業高校定時制の記念誌には、同じく校舎を焼失した市立商業学校について「高浜の如く未来永劫平塚市立高校としての繁栄を約束された」(*1)との記述がある。このことから、市立高浜と市立商業(市立商業の沿革については後述)が、「未来永劫平塚市立高校」であるというのが当時の平塚市民の認識だったのではないかと考えられる。昭和34(1959)年に神奈川県に移管され、現在の神奈川県立高浜高等学校となる。また、戦後一時期、共学化を行うも定着せず、長らく女子高であったが、平成5(1993年)に改めて共学化され現在に至る。

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【県移管併設問題前史② 市立商業とは】

 平塚市立商業高等学校とは、現在の神奈川県立高浜高等学校定時制のことである。戦前の昭和13(1938)年に平塚市立商業学校として開校した市立商業は、昭和23(1948)年の新制高校化で平塚市立商業高等学校に改称した。その後、昭和25(1950)年に平塚市立高浜高校の夜間部普通科が市立商業に移管される。昭和41(1966)年に、神奈川県立平塚商業高等学校(昭和37年開校)に移管され、県立平塚商業の定時制として再出発する。令和2(2020)年の県立平塚商業・県立平塚農業の統合により、市立商業の流れを持つ県立平塚商業定時制は県立高浜に移管された。

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 以降、現在の県立高浜高校・旧県立平塚商業高校と区別して、「平塚市立高浜高校」を市立高浜、「平塚市立商業高校」を市立商業と記載する。

【市立高浜・市立商業の県移管併設問題の発生】

 昭和30(1955)年頃から「高等学校綜合性、学区制等輿論が盛んになり、果ては本校(本校とは市立高浜を指す:引用者注)の存続の可否する問題」(*2)が発生した。その輿論の動きに伴い、当時の柿澤篤太郎市長(昭和22~30年)は「一、高浜高校は絶対に廃校しない 二、高浜高校は県に移管しない 三、高浜高校は市の誇るべき高等学校として、その整備、完成を急ぐ」(同上) の三原則を声明する。しかし、翌昭和31(1956)年の選挙により市長は戸川貞雄氏に交代し、2月14日の定例市会において、市の財政上の理由により、市立高浜・市立商業の県移管方針が決定された。さらに、当時の加藤教育長は市立高浜と市立商業とを統合又は併設後の県移管を行うとする私案を発表した。しかし、市立商業が併設される予定の市立高浜では「生徒父兄、職員全部又、商業高校においても単独県移管はさておき"併設案だけは絶対反対である"」(*3)とする意見が大半を占め、市立高浜・市立商業両関係者の意見は併設案絶対反対で一致した。これ以降、市立高浜・市立商業の関係者による市立高浜・市立商業両高校の併設案反対運動が盛んになり始める。当時を知る市立高浜関係者は、この時の状況について「教育長は最善ではないが次善の策として平商や夜間部(平商は市立商業、夜間部は市立商業に設置されていた夜間部普通科を指す:引用者注)と高浜を合併して県に移管すると主張して」(*2)聞く耳を持たなかったと回顧している。

【併設案浮上から6月議会までの併設反対運動】

 市立高浜・市立商業の併設案に反対して、市立商業PTAが平塚市議会に「商業高等学校を高浜高等学校併設並に県立移管並に県立移管に関し反対の陳情(原文ママ。「県立移管並に県立移管に関し」は「県立移管に関し」の誤植か。:引用者注)(*4)を提出している。以降、この陳情の名称ついては、便宜上の関係から市議会での受付番号である「陳情第五号」と記載する。
また、この陳情第五号が、いつ市議会に提出されたのかがわかる資料は現在発見されていないため不明である。しかし、昭和31(1956)年3月13日の本会議議事録にこの陳情書が取り上げられていること、同年9月28日の本会議議事録で「去る三月十三日の市議会に於て全員協議会に附託された陳情第五号」との記載があることから、2月14日の定例市会から3月13日の間に提出された陳情書であることは間違いない。

 当時、市議会に提出されていた陳情第五号本文が、上記の3月13日本会議議事録に記載されていたので、以下にその前文のみ引用する。

 「我々の商業学校を高浜高校に併設又は統合の形で県立に移管すると言う計画が□の文教委員会並に教育委員会に於て決定されこれが実現に向って強引な□動が進められている□にきくが併設の弊害短所は本校の創立当初身を以って体験しているので再びその苦汁を舐める愚かさを繰り返す気にはならない。又統合の具体的解説は平商自体の廃校を意味するものであるから、母校を失う本校卆業生の心情に思いを致し到底耐え忍ぶのできない悲惨事であります。それ故もしこの計画が実現した暁には平塚市は市の学校教育機構の上に大きな過ちを犯し□を千歳に残すものとして我々は当局に強き反省を求め且つ、その計画の変更をお願いするものであります。(当時の議事録は書記による筆録のため、当時の筆癖で書かれたと思われる読解不可能な文字がある。□は解読できなかった文字:引用者注)(*5)

 ここで言及されている「併設の弊害短所は本校の創立当初身を以って体験している」とは、昭和20(1945)年の空襲で校舎を焼失して以来、市立商業が他の市立学校の校舎に併設又は間借りしていた時期のことであると考えられる。戦後間もない市立商業は、平塚大空襲後に、焼け残った市立第四小学校(現在の富士見小学校)に移った。その後、当時の市立商業の磯村校長が市立商業校長名で旧海軍資材(建物にして600坪分)を集め、その資材を用いて平塚市が校舎を建設・竣工した。しかし、市立商業に新しい校舎が出来たその数日後、その校舎に市立富士見小学校・市立松原小学校に分散疎開していた市立浜岳中学校が併設されることになる。市立商業は、独立した校舎を求めて旧実践女学校の校舎に移るも、そこでも市立高浜と一年程度併設されることになる。市立商業関係者は、市立商業の市立高浜への併設は「再びその苦汁を舐める」ことであるから反対していたという事実が、この文章から浮かび上がる。

 なお、併設案発表の2月から市議会で決議される6月までの、市立高浜側の併設案反対運動に関する資料は発見されておらず、その実態は不明である。

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当時の平塚市議会本会議議事録(昭和31年3月13日)

【反対期成同盟結成と併設の決定】

 6月26日に、市立商業関係者から市議会に提出されていた陳情第五号を取り下げる形で、市議会全員協議会において「市立商業高等学校は市立高浜高等学校に併設しこれを県に移管することにする 尚市立高浜高等学校も県立に移管することが適切であると認める」(*4)ことが決定され、29日の本会議で正式決定が行われることになった。

 27日夜には、市立高浜のPTAにより併設案正式決定を食い止めるための対策委員会が開かれ、29日の反対運動についての計画が練られた。

 28日には、「同夜は農業会館に三〇〇人の父母が集まり、PTA総会、続いて同窓会の人たちも集まって(中略)併設反対への声明書、決議文を満場一致で目的達成迄、頑張ることが決議され、名称を『平塚市立高等学校併設反対期成同盟』」(*3)とする組織が設立される。このPTA緊急総会において、更に「単独県移管に関しては父兄、同窓生、学校側、後援会共に絶対否認しているのではなく現実の問題として併設に絶対反対」(同上)ということが確認され、PTA緊急総会後に反対期成同盟大会が行われた。同盟大会では、明日の本会議で、「全父兄を市議事堂に動員、プラカード、旗、のぼりを使用し反対同盟大会の名において決議文を提出」(同上)することが決定され、当日反対運動が展開されることになる。また、この期成同盟大会において、「市立商業との併設統合絶対反対」「今後の運動は対策委員に一任」「反対同盟運動は目標達成まで継続」することを期成同盟の活動方針とした。なお、平塚市立高等学校併設反対期成同盟の構成団体、メンバーについては記載がないため不明である。しかしながら、期成同盟の会長として、市立高浜PTAの会長の名前が市立高浜の学校新聞である高浜新聞で紹介されていることから、期成同盟は事実上PTA総会に参加していた市立高浜PTAが中心の組織であったと思われる。また、「同窓会の人たち」という記載から、期成同盟に参加したのは同窓会本体ではなく、あくまで卒業生個人であったと考察できる。

 この同盟大会では、市立高浜が市立商業と併設することで、今まで教員や卒業生が築き上げてきた「独立高浜建設」の努力や、女子校としての特殊性、高浜の伝統を壊すことにつながるという懸念が理由として挙げられた。また、同盟大会における「昔の貸住居同様の辛苦な学校生活はさせたくない」(*3)という同窓生の発言が、満場一致の拍手で迎えられたと高浜新聞に掲載されている。

 「昔の貸住居同様の辛苦な学校生活」は、市立商業側の認識と似た主張である。市立高浜も、昭和20(1945)年の平塚大空襲で校舎を焼失しており、戦後は日本軍の兵舎や青空教室、火薬廠の工員寮を転々とし、私立平塚高等実践女学校を買い取り落ち着いたという「辛苦な学校生活」の歴史を持つ。また、「独立高浜建設」とは校舎焼失による廃校危機を逃れるために、前述の実践女学校と空襲を免れたその校舎を、教員や保護者でお金を出し合って買い取り、今に続く歴史の流れを指すと思われる。更に、「高浜の伝統」とは、学校の種類(実科高女、高女、新制高校)の変遷、市立高浜と実践女学校の同窓生が混在する特殊性のことである。

 また、同日午後には、当時の市立高浜生徒会によって、「このような事態に至って我々生徒は傍観している訳にはいかない」(同上)として、この併設案に対して市立高浜の生徒がとるべき態度を決定するための緊急生徒総会を開催した。この緊急総会では、「(生徒の)代表により市長、教育委員長、文教委員長、議長を訪問し、併設をくいとめてくれるようお願いすることに決定した」(同上)。

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当時の高浜新聞(第33号) 一面

 また、当時の市立高浜高校生徒会が、臨時生徒総会の決議をもとに、平塚市議会議長の遠藤精一氏に手渡すために作成した「お願い書」全文が、『高浜新聞』第33号に掲載されているので、参考資料として全文を掲載する。

お願い
 本日の新聞によると私達の高浜高校に商業高校を併設する方針が内定されたとありました。
 私達は早速生徒総会を開いたところ、全会一致。絶対反対を決議致しました。何卒関係当局の皆様の御努力で母校の伝統を守れるようにして頂きたいと思います。
 昭和三十一年六月二十八日
高浜高等学校生徒会会長 □□□□
平塚市議会 遠藤精一殿
注:生徒会会長名は個人情報保護のために伏字にしています。

【平塚市議会本会議と反対運動】

 29日朝7時頃から、市立高浜生徒会は市長、文教委員長に「お願い書」を手渡し、次いで議長宅(当時の議長は遠藤精一氏)では「『学生が政治問題に口を出す事はいけない、誰に扇動されてきた?先生だ』ときめてかかってきて(中略)『財政難なのに校舎が建つんですか?』とこちらで問いかけると『出ていけ!生意気!』と頭からどなられ」(*3)たことを当時の高浜新聞が掲載している。朝8時からは保護者や両高校の卒業生が市議事堂前に集合し、議員が来るのを待ちかまえた。

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市議事堂前にて、議会進行の状況を聞く、父母同窓生
(高浜新聞 第33号より引用)

 これらの反対運動が行われたおかげか、本会議で併設案に関する議論は行われず、「高浜新聞」によれば、併設案に関する四者会談が13日に行われることとなったという。この「四者会談」について、該当する文書・記録等の古さから、行政文書の保管年限も大幅に過ぎているため、何月の13日なのか、「四者」の構成員は誰なのかを特定することはできなかった。しかし、『高浜新聞』第33号の別の記事「父母六〇〇」では、この29日の本会議で「七月十五日迄に当局はPTAと話し合うという確約をした」という記事が掲載されており、それに伴う市立高浜のPTA会長の「本当の斗いはこれからです。我々は併設阻止迄団結して斗いましょう(「斗い」は、昭和30~40年代に使用された「闘」の略字である:引用者注)」という挨拶文が掲載されていることから、13日の四者会談とは、7月13日の戸川市長と市立高浜関係者、市立商業関係者、教育委員長の四者による調整だったのではと考えられる。

 この6月当時の状況について、市長の戸川氏は後年の著作内で、「もはや何でも反対の全面的な反対闘争の段階ではなくて、いわゆる条件闘争の段階に入った」(*6)と回想している。

【高浜高校単独県移管の決定】

 これらの併設反対運動の結果、市立高浜と市立商業が併設される計画はなくなり、市立高浜のみの単独県移管が決定された。

 市立高浜の県移管に伴い、当時の高浜高校教職員組合は、「元来、当校は、他の湘南諸都市の旧市立高校とは異り、平塚市が独自の構想に基き市独自の教育理想達成を目途に、独力で再建のスタートを切った学校であり、その建設もすでに計画の半ばに到達せんとしつつある状況にあり、県移管の措置は、市財政運営上、やむなき要請であるとはいえ、誠に残念な次第と申すべきでありましょう。」と市立高浜の歴史を回顧したうえで、「『高浜』本来の使命を充分にお考えいただき、最後まで積極的御支援を確約していただきたい。(中略)校名については飽くまで『高浜』の二字を抹消せず、引続いて用いていただきたい。当校は創立以来、学校種別の変遷、私立校の吸収合併等により、すでに再三、名称を変更しており、同窓生の構成も複雑であります。この為、校名を変更するときは、一層微妙な対立異和を同窓生間に惹起し、その心情を傷つけることは必須であり、誠に忍びがたきものがあります。(中略)将来とも、『高浜』として発展充実を続ける」(*7)ことを求める要望書を加藤教育長に提出している。

【編集後記】

 今回は、市立高浜・市立商業の県移管併設問題について取り上げました。市立高浜と市立商業が、同じ平塚大空襲後の苦難の歴史を思って併設に反対していたこと、この反対運動に教職員や保護者だけでなく卒業生、生徒も参加していたことなど、各所に分散していた情報を、ある程度体系的にまとめられたのではないかと思います。また、今回の記事では、この県移管併設問題を市議会ではどのように取り扱ったのかについての記載が少ないなど、私の技量が至らなかった部分もあります。それらについては、今後も調査・研究を重ね、追って補足できる内容を本ブログ内で紹介したいと思います。
 本ブログをお読みいただきありがとうございました。次回のブログでまたお会いしましょう。深江

*1:創立50周年記念準備委員『平商 創立50周年記念誌』(神奈川県立平塚商業高等学校定時制、1988年)
*2:中川昇『神奈川県立高浜高等学校 創立四〇周年記念文集 あゆみ』(神奈川県立高浜高等学校、1975年)
*3:平塚市立高浜高等学校新聞部『高浜新聞』第33号 昭和31年7月20日
*4:平塚市議会本会議議事録 昭和31年9月28日(情報公開請求文書「平塚市議会指令第1号」)
*5:平塚市議会本会議議事録 昭和31年3月31日(情報公開請求文書「平塚市議会指令第1号」)
*6:戸川貞雄『市長の椅子』(講談社、1966年)
*7:高浜高校教職員組合『高浜高校県移管に関する要望書』1958年

【参考資料】

中川昇『神奈川県立高浜高等学校 創立四〇周年記念文集 あゆみ』(神奈川県立高浜高等学校、1975年)
創立50周年記念準備委員『平商 創立50周年記念誌』(神奈川県立平塚商業高等学校定時制、1988年)
戸川貞雄『市長の椅子』(講談社、1966年)
高浜高校教職員組合『高浜高校県移管に関する要望書』1958年
平塚市立高浜高等学校新聞部『高浜新聞』第33号 昭和31年7月20日
平塚市議会本会議議事録 昭和31年9月28日(情報公開請求文書「平塚市議会指令第1号」)


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