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北方領土パネル展2023 IN かながわ(神奈川県庁新庁舎1階ロビー)/78年目の終戦記念日/光復節記念式典

終戦記念日の本日は、多くの尊い命が犠牲となった先の大戦から、78年の歳月が過ぎ、私たちは、今年も平和と繁栄を享受する中、この日を迎えました。戦争の犠牲になられた御霊に衷心よりの哀悼の誠を捧げますと共に 心より御冥福をお祈り申し上げます。
/本日午前中は、地元支援者の車で新盆参りに廻らせて頂き、午後からは、県立音楽堂大ホール(横浜市西区)にて行われました「第78周年光復節記念式典」に県議会議員の立場で出席をさせて頂きました。ステージ上から、お集り頂いた在日韓国人の方々に対して、ご挨拶をさせて頂きました。
/本日の式典には、国会、県議会・各市議会からも合わせて30名ほどの議員の出席(非公式・代理含む)があり、自民党、公明党、立憲民主党、日本維新の会からそれぞれの代表者が一人、挨拶の時間を頂戴しました。
私の代表挨拶では、私と韓国との関係について以下のように少し触れさせていただきました。
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私は18歳で家を出て働き始め、20代は働きながら国際交流活動を行っていました。特に東海大学の韓国人留学生たちとは、友人の一人として私も仲間に加えてもらいました。そうした中で、私だけ韓国語が理解できないのが悔しく「財団法人 神奈川韓国綜合教育院」にて開催している(主に在日の方を対象とした)韓国語教室も(日本人として)受講していました。
当時私の仕事の休みは週一日(たしか木曜日)で、この日の昼に開催される韓国語講座に磯子のプリンスホテル(当時)の下にあった教育院に通った記憶があります。留学生との交流で「大学生活もいいものだな」と考え、30歳で慶応大学に進学し、外国語に「朝鮮語(韓国語・ハングル)」をとりました。当時の私の指導教諭は東海大学の留学生だった友人の親友でもありました。
この時はちょうど、サッカーの日韓ワールドカップが共催され、試合中も共に笑い、共に涙しました。大学3年時に厚木市議会議員に初当選し、翌2005年2月には、厚木市と韓国京畿道の軍浦市 (クンポし)は、友好都市となりました。当時の市長は軍浦市の丘いっぱいに咲くチンダルレ(つつじ)に感動し、厚木市にも「つつじの丘公園」をつくり、(厚木市の人口と同じ)22万株のつつじを植栽しました。日本と韓国は、その時々で、仲が良くなったり悪くなったりしますが、様々な式典やイベントが次の世代の「道しるべ」となるように私たちも私たちの立場で応援していきたいと思います。
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・・・といった内容にも触れさせて頂き御挨拶をさせて頂きました。
私たち、在日でない地方議員もそれぞれの立場で、未来志向の関係構築をしていく必要性を強く感じた一日でした。昼食は、崎陽軒のお弁当でした。

令和5年8月7日(月曜日)~17日(木曜日)「北方領土パネル展 2023 IN かながわ」を神奈川県庁新庁舎1階ロビーにて開催しています。
実際に北方領土に足を踏み入れた経験のある政治家は、あまりいないと承知しています。私は、平成21年9月16日から22日まで、北方領土四島交流視察訪問、いわゆるビザなし交流事業に神奈川県市議会議長会派遣(当時=厚木市議会副議長)の立場で参加し、多くの研究者や学生などで結成された訪問団の一員として加わりました。北方領土訪問は、私にとっても非常に意義のある経験でした。

また、私自身、スリランカ内戦中、国からの助成金などを受ける形で、スリランカ国内に職業訓練学校を設立・運営する活動を長く続けてきました。領土をめぐる紛争前線にも友人のワジラ=アベイワルダナ国会議員(当時国務大臣)に連れられて廻りましたし、議論を重ねました。それまでも私はNZで少林寺拳法指導員(当時18歳)の仕事をしながら、国際交流の経験もありましたが、「日本人感覚では紛争現場」に通用しないという事を認識した最初の経験でした。
今ほど「しなやかで、したたかな外交」が求められている時はありません。少しばかりではありますが、現場を知る者の一人として、また、いち地方議員としてシッカリしないといけないと 毎年、「北方領土パネル展」を迎えて、改めて思います。

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県議会議員〈厚木市・愛川町・清川村〉

佐藤 知一

さとう ともかず

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