• このエントリーをはてなブックマークに追加

この記事を印刷

阪神淡路大震災から29年目を迎えました

本日(1月17日)、6434人の尊い命が奪われた阪神淡路大震災から29年目を迎えました。私の活動の原点となる経験です。

【政治の原点は被災支援】: 本日早朝5時46分で、阪神・淡路大震災から29年が経ちました。

29年前の今日、「(朝起きると)テレビ画面では、横倒しとなった阪神高速道路が大映し」になり、倒壊した街のそこかしこから、煙が立ち昇す光景が中継され、私自身もその場で立ちすくんだことが思い出されます。次の日の新聞でも、この「神戸市東部から芦屋市にかけて阪神高速道路が約500メートルにわたって横倒しになっている写真」が一面を飾りました。

その後、私も支援ボランティアの一人として、現地(被災地)入りを致しました。必要物資が圧倒的に足らない状況を目にし、調査をすると「全国から次から次に届く物資」も大阪等の近郊で止まっている状況でした。まさに「ボトルネック」を認識しながらも、必要な場所の選定も出来ず、適所に配布する人材も方法も全くない状況でした。私は現地で指揮を執る友人のアドバイスに添ってのお手伝いを夢中でしていました。

いったん厚木に戻り、その4か月後、今度は、自分の車(軽ワゴン車)に物資を目一杯積み込んで現地入りをしました。

当時の私は、調理師をする傍ら、外国(アフリカ諸国やタイ王国)に物資を送る活動をしておりました為、他の民間NGO団体の協力も頂き、リネン(貸し出し用シーツ/クリーニング済)を中心に数千枚積み込み現地へと向かいました。高速道路の電光掲示板には、関係車両以外通行止めという表示がなされる中、現地のNPOと連絡を取りつつ「救援物資輸送中」という手作りのプレートを掲げて走り続けました。あまりの現状のひどさに現地では、人にカメラを向けることも出来ず、もちろん、記念写真的に自分自身を写すことも出来ませんでした。私の手もとには、崩壊した建物を写した数枚の写真だけが残っています。

振り返れば、阪神・淡路大震災のおきた1995年は、ボランティア元年と呼ばれました。

その後、東日本大震災を厚木市議会議員(学校を所管する環境教育常任委員長)として経験し、その直後に神奈川県議会議員としての出馬を決意します。当時所属の政党では県内で最も遅い公認候補となり県議会議員に当選しました。

神奈川県議会でも多くの議員が防災の重要性を唱えています。私も初当選から、震災対策調査特別委員会の委員、所管の県民企業常任委員会(当時)の委員として議会で働かせて頂きました。この時の思いと経験を忘れず、地方政治の場にて活かして行きたいと強く思っています。

【データ】:1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部沖を震源とするマグニチュード7.3の直下型地震が発生。最大震度7を記録。死者6,434名、負傷者43,792名。戦後最大の都市型災害となりました。阪神淡路大震災では強い揺れにより甚大な被害が出ました。全壊家屋104,906棟、半壊家屋144,274棟。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

この記事を印刷

県議会議員〈厚木市・愛川町・清川村〉

佐藤 知一

さとう ともかず

佐藤知一

プロフィールを見る

BLOG

佐藤知一の政治の村ブログ

一覧へ