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会派(党議)拘束は、緩和もしくは撤廃するべき

【善と政治】


 


政治に必要な力は、善を行う力です。政治家が何が善なのかを明確に知れば知るほど、良い政治が生まれます。善政は善の正体を知ることから始まります。


 


政治の目的は水道や道路、医療や福祉、環境保全や防災など多種多様ですが、その根本にあるべきは、人間が善を行うためであることは、古今東西で述べられてきましたし、何が善か、何が良心か、昔から多くの哲学者が問うてきました。


 


その答えは多くの枝葉に分かれていますが、その根の一つに、善は真実に基づくこと、という大きな基礎があるように思います。


 


現代は、ジャーナリズムが権力の一角を占め、善や良心の保全者、発揮者として政治を善に導く、政治に良心を取り戻す真実の番人としての活躍が期待されてきた時代だと思います。


 


しかしそのジャーナリズムにも限界があると、インターネットやSNSの発達によって指摘され始めました。インターネットやSNSでしか発揮され得ない善や真実があると我々は気付いています。被害者や目撃者が直接真実を暴露できるからです。


 


善は、弱者を救う行為を指す、と誰もが知っています。善を踏みにじる行為は、すなわち悪です。人を傷つける行為は悪ですし、弱者を見捨てる行為も悪です。悪は本来、政治や行政によって制止されるべきはずのものですが、現実には、政治や行政によって頻繁に社会にもたらされている行為だということも、我々は知っています。


 


正当防衛は社会通念として我々は矛盾を感じません。しかしその延長にあると主張される戦闘行為はどうでしょうか。ここでは真実の確認が求められます。正当防衛は立証されなければいけません。しかし今世界で発生している戦闘行為も、日本が戦った過去の戦争も、我々一般市民にとっては、真実を確認することは容易ではありません。報道やインターネットを通じた記事や投稿が真実かどうかの確認は難しく、日常を送る中では実際には不可能です。


 


政治は、悪を善にもしますし、善を悪にもします。権力者に都合の悪いことは隠されます。権力者の思うように世の中が作られます。真実の隠蔽は、人間の知恵が生んだ悪です。その知恵を悪用し、政治家は自らの権力を永らえようと知恵を働かせます。結果として、事実と異なることを事実とし、真実を歪め、権力を延命しようとします。


 


いつまでも政治不信の根が絶えないのは、政治が隠蔽の温床であると皆知っているからです。この温床を断ち切るために世界各地で議会や選挙制度が改革されてきたと思います。いわゆる、「政治的」と称される事柄は、善悪を超えて権力者の判断に委ねるという意味合いで使われていると思いますが、「政治的決着」を善に基づいたものにするためには、まず決着する政治家自身に確固とした善がある必要があります。


 


政治家に善があるか。また、権限を持つ行政職員に善があるか。善がなければ、多くの市民が苦しみます。為政者を市民の力で善に導く追究が民主主義の目的であり、議会や選挙をあきらめてはいけない所以です。


 


そして、権力が善に背く真実はこれを追及して、弱者の人権と、自由と、穏やかな日常を守ることが議員に託された仕事であり、私もそのように実行していきたいと思います。


 


真実が大切なのは、真実によって権力の悪が暴かれ、救われる弱者がいるからです。そしてそれが真実の力そのものです。権力者によって隠されている真実を暴かなければ、苦しみから救われない市民がいるために、真実は常に暴かれる必要があるのです。議員が権力や利権におもねり、真実を隠して権力者をかばっていては、選挙する意味がありません。権力者にとっては不本意な真実でも、弱者を守ることが人間の善であることに基づいて判断するべきであり、それが善政の基礎になります。


 


【横浜市の「不問に付す」文化を変革すべき】


 


今の横浜市政は、この善よりも、効率主義に強く傾斜しているところに問題の根本があるように私には感じられます。市役所が大組織であることを理由にして、効率的な施策推進という名のもとに善が犠牲になっても仕方がない、その善の犠牲を正当化するために「組織で対応する」という常套句で組織に隠れて自己の良心から逃れようとする。


 


特に、昨今の横浜市教育委員会の倫理観の低下は著しく、これ以上看過すべきではありません。市会もこの数年、教育委員会に対する対処が不十分であった事を自省すべきと思います。教育委員会が自己批判に基づいて子ども中心の学校教育へと転換が困難に陥っているのは、その根底に、市長と市会が前教育長に対して、2020年3月に自死した中学2年生へのいじめ事案をいじめ重大事態へ移行することを怠った違法行為について、結果的に「不問に付した」対処が原因としてあるように私には思えます。教育委員会だけではなく、横浜市全局にまたがって「不問に付す」文化が根付いてしまっているのではないか。その不問文化は市会こそが助長させてきたのではないか。行政を不問に付すことによって行政組織や市長、市会内部の人間関係を重視し、果たすべき善を棚上げにしては来なかったか。


 


本来基準となるべき善が隠され、不問に付す事態が続けば、職員もその不問に倣い、許されるべき基準、従うべき基準を間違えていく事になります。教職員を含む教育委員会の職員は、自分が一体何に対して責任ある行動を取れば良いのか、分からなくなっているのではないでしょうか。良心に恥じない善的判断を下したいと願っている職員は少なくないと思いますが、組織という軍隊に似た「善的修正」が困難な集団の要請によって、職員個人の良心が押し殺されてはいないか、非常に心配な状況が横浜市行政に横たわっているように思います。


 


その傾向は、教育委員会だけのものではなく、児童相談所を所管するこども青少年局しかり、山下ふ頭再開発を担当する港湾局も、マスコミへ抗議文を発出した政策局も、にぎわいスポーツも、他の局もしかり、です。組織を向くのではなく、市職員は市民を向いて仕事しなければならないことは明白でありますから、市職員が自らの善の力を信じ、自らの良心を存分に発揮し、市民のため弱者のために働けるように、市会で私として出来ることを力を尽くしていきたいと思っています。


 


【会派(党議)拘束は、行政が議会を飼いならす籠】


 


そのために、私は、地方議会における会派拘束の緩和もしくは撤廃を推進して頂きたいと考えています。国会の議院内閣制と違い、地方は首長と議会を別個に選挙する二元代表制です。この制度は主に、議会が首長(行政)をチェックする機能を期待されるものです。しかし今の日本の地方議会は(もしかすると横浜市会だけかもしれませんが)、行政のチェック機能よりも、行政への要望機能を重視し、首長(行政)にいかに議会の言うことを聞いてもらうか、要望を実現する機関と自ら化し、要望事項を行政に実現してもらうために数(議席数)の力で説得しようと、政党を軸に会派を構成し、議会の採決の際には、会派所属の議員には、会派決定した賛否に従うことを強制しています。


 


しかしこの会派拘束の姿は、本当に必要なものなのでしょうか。国会の議院内閣制では、憲法により、内閣が国会に対し連帯して責任を負うため、与党は内閣(行政)を支えるために党議拘束がかかり、野党も政権奪取をかけて政策責任を明確に国民に訴えるために党議拘束をかけることになります。地方議会における会派拘束は、この議院内閣制の党議拘束の模倣にしか過ぎないのではないか、と、私は思うのです。地方議員は、どうがんばっても行政権を奪取することは出来ないからです。二元代表制においては、会派拘束は絶対要素として守るべきものと言う根拠はどこにもありません。まして、議院内閣制の母国とも言うべき英国の国会においても、党議拘束の強度は三段階に分かれ(※1)、絶対的に従うことのみ、という制度とはなっていません(※1 向大野新治著「議会学」より)。


 


この会派拘束に、政治家の善からの逃亡が垣間見えます。会派を理由にすれば、賛否の責任を逃れられるからです。行政職員が組織決定を理由に良心の咎めから逃亡するように、議員は会派拘束を理由に賛否理由から自らを解放しようとするのです。市民にとってみれば、一切公開されることのない会派内の議論で決定された賛否など、何の理由にもなりません。


 


政党組織も同様です。政党が、組織の体面を重んじ、政党組織に不都合な真実は公開することなく、市民国民の利益を第一に考えない政治家の温床となってはなりません。何事も真実を明らかにし、善に基づく判断を行うよう自らを律して初めて、行政を指導する政治家集団としての資格を得られるのではないでしょうか。


 


私は一人会派となって一年が経ちましたが、会派組織に隠れることのない議員個人の判断を公開する重要性と必要性を改めて強く感じています。議員は選挙を経てその判断力を市民に託されています。一人一人の議員の意思の重さを改めて横浜市会は考える必要があるのではないかと思います。会派の一部議員の決定に常に従うことが、二元代表制が絶対的に要請するものなのかどうか。そもそも、会派制を採用していない地方議会も多くあり、二元代表制にとって会派制は絶対に必要なものではないということを、再確認する必要があるのではないでしょうか。多くの議員の意見を一つに集約する会派拘束は、首長(行政)の議会対策に都合よく機能してしまうものです。会派拘束は、行政が議会を飼いならす籠(カゴ)のようなものです。会派拘束は今後、地方議会の存在意義を高めるために、緩和あるいは撤廃されていくべきものと私は考えます。


 


会派が、権力の隠れ蓑となり、隠蔽の温床となり得ることは、市民の誰もが分かっています。そこでは、組織の名の下で議員個人の良心が黙殺され、善悪から遊離した政治的判断で、秘密裡に物事が処理されていきます。真実が暴かれることなく、したがって善が行われているのかどうか、善に基づいて判断されているのかどうか、市民は知ることが出来ません。会派拘束を続けるのであれば、拘束に関わる会派内の会議は、すべて公開するべきと思います。


 


これからも、86名いる横浜市会議員の一人として、市民の負託に応えることが出来るよう、善に基づく判断と、真実の追究と、市民の福祉を第一に考える市政の実現に向けて、より一層励んで参りたいと思います。


 


皆様のご指導ご鞭撻を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

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横浜市会議員〈西区〉

荻原 隆宏

おぎわら たかひろ

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