熊は敵なのか、それとも私たちの鏡なのか ― 出没の時代に問われる共存と制度のかたち ―
この秋、連日のように熊の出没ニュースが報じられています。住宅街や学校、駅前にまで現れ、警察や猟友会が駆けつけ、最後には銃声が響く。そんな映像が繰り返し流され、人々の恐怖と不安をあおっています。報道はしばしば、熊を「危険な野獣」「駆除されるべき存在」として描きます。しかし、なぜ熊が人里に出てくるようになったのか、その根本的な理由を問う報道はまだ少ないように感じます。
今年は全国的にブナやミズナラなどの実りが凶作でした。熊にとっては冬眠前の大切な栄養源が不足し、山に食べ物がなくなれば生きるために下りてくるのは当然の行動です。気候変動の影響で山の実りが不安定になっていることも無視できません。加えて、里山の手入れ不足、耕作放棄地や空き家の増加により、人間の生活圏と熊の生息域の境界はどんどん曖昧になっています。熊が山から降りてきたというより、私たちの暮らしが山へと近づき、両者の距離が崩れてしまっているのです。
本来、熊の出没や駆除は緊急対応の問題にすぎません。同じことを繰り返さないためには、より構造的な視点が必要です。その一つが、最近ようやく報道でも取り上げられ始めた「ゾーニング」という考え方です。環境省や一部自治体では、熊の生息を保全する「コアゾーン」、人と熊が交錯する「緩衝地帯」、そして人間の生活圏である「ヒューマンゾーン」を設定し、それぞれに異なる管理を行う取り組みを進めています。これにより、熊が安心して暮らせる場所と、人が安全に暮らせる場所の“距離”を再設計しようという発想です。本来、ニュースは駆除の瞬間よりも、こうした共存の仕組みをこそ伝えるべきでしょう。
もう一つの大きな課題は、熊への対応体制そのものです。現在、ほとんどの自治体では、出没時の対応を「猟友会」に依存しています。猟友会は狩猟を趣味とする人たちの任意団体であり、行政組織ではありません。会員の多くは高齢化し、日当数千円の手当てで危険な駆除作業に当たっているのが実情です。命の危険を伴う業務を、ボランティア精神に頼っている構図は明らかに制度としての限界を迎えています。佐竹敬久前秋田県知事が「今は熊との戦争だ。趣味の団体に頼る時代ではない」と指摘したのも当然のことです。
本来、野生動物管理は行政の責務であり、専門性を要する“公共の仕事”です。アメリカやカナダでは「ワイルドライフレンジャー」や「ベアマネジメントチーム」が常設され、出没対応・麻酔・移送・住民啓発を一体で行っています。日本でも、同様の「野生動物管理専門官」や「出没危機対応チーム」を地方自治体やブロック単位で設けるべきです。環境保全の枠組みではなく、人命と生活を守る防災・安全保障の視点で制度を組み替える必要があります。
熊は敵ではありません。自然と人との距離が壊れた現実を映し出す鏡のような存在です。いま必要なのは、恐怖を煽る映像や一時的な駆除ではなく、共存を可能にする知恵と制度を築くことです。ゾーニングで環境を整え、専門体制で安全を守る。熊との距離を測ることは、私たち自身が自然とどう向き合うかを問うことでもあります。熊が里に降りたのではなく、私たちが山を忘れてしまったのではないか――。そう考えることから、次の一歩が始まるのだと思います。
2025年10月31日 07:30









